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アイアンマン1のなにがすごいって演出と脚本なのである。アフガン、多国籍テロ屋、軍産複を含むアメリカの軍事力に対するアンチテーゼ(のパロディ)と、時節柄あれほどヤバすぎるネタをことごとくぶち込んで、あそこまでノンポリな作品に仕立て上げるのがすごい。
Qの連弾のシーンとか、「隠された庭」の話だしなー。問題はあそこに込められたメタファが執拗に描かれる手(というよりも、細くしなかやな指)の芝居で表層的に(商業的に)はホモセクシャルなエロチズムなんだけども、
村上春樹的「逆襲のシャア」 よく出来たパロディ。一周、まわって、ヘミングウェイというかロストジェネレーションっぽい喪失の話になっているのが興味深い。http://t.co/AHe1FuS9
まあ、中心でいうとヒロインのねーちゃんから主人公にスライドすることに演出的に失敗してる。つまり、ねーちゃんが最初に出したドラマの起点となる「主人公を引き込む(バックストーリィにある叔父への思慕)」を終盤でセオリー通りに回収しにかかるんだけど、
じゃあ、どうすればよかったのかというと、主人公が家族の内幕にぐいぐい迫るべきだったよね。そこで価値の転換ができたはず。トラウマ・バスターになるべきだったが、まあ、主人公の個性が薄くて、家族のキャラの個性化の比重が高かったので、もうこれはそもそもの設計ミスといえるなあ。
そこで「家族劇」と主人公とヒロイン(とおじさん)のメロドラマとが激しくコンフリクトしてる。まあ、「おばあちゃん」を伯父さんのキーにしてしまった以上、発生したんだけど、主人公が人類を救うがかなり軽くなってる。ヒロインのハートをゲットするのと等価になってないんだよね。
卑近な表現をすると、悪役はなぜ悪役なのか? というと、彼らは本質的にボケであり、そのため、主人公のツッコミビリティを高め、確かめるために機能する。そして、お笑いがそうであるようにボケというのは往々にして貴重であり、人気が出やすい。
エヴァにおけるセントラルドグマというのは、一個のウロである。ウロというのは率直に言えば女性器のことであり、そこに挿入する/したい/還元される/されたいモノたちの象徴である。セントラルドグマという穴は、いわばエヴァの母性についての物語を規定しさえしているわけだ。
進撃の巨人では、作品自体を象徴的に示す「壁」を中心に常にドラマが展開されるように、エヴァにあってはセントラルドグマ(に収容されたリリスとアダム)を中心にドラマが展開されている。両者を対照として考えるとき、この似て非なるモノの差異について考える必要が在る。
サマーウォーズの朝顔や大家族が囲む食卓の描写もそうなんだけど、ああいったスクリーンの操作は、今のところアニメでしか表現できないといっても過言じゃない。あれを実写でわざとらしくならないようにしようとすると、カットを割るしかないと思うんだけど、同ポジやフォローで収めきるのが細田守
しかし、今回の日韓の騒動はまさかのシャレにならん事態へと淡々と展開して、まさかの韓国の悪手連発で、まさかの民主党の外交上の勝利になるという、まさかの連続で、結構びっくりしてる。
まあ、そんな感じ。TDKRの面白いところは、西部劇と違い、ブルース・ウェインの個人的な幸福に到達するためには、ゴッサムから距離を置く必要があって、くどくどとそのことについて言及され、実際そうなるところ。本国の気合の入った原作ファンとかブチキレそうな話だよね。
花咲くいろは7話見た。この作品の構造をようやく分かりつつある。(様々な意味での「猶予」として機能する)モラトリアムに、次々と現れるダメなオトナを、安易ではないアーキテクトを施された萌えキャラが順番に説法かましていくバトルアニメなのだろう。
アメリカにおける映画と日本におけるマンガで対比してみて、マスプロダクションなスタイルと、職人芸の在り方を思う。とすると、マンガとは、日本人がその心性において好む「職人芸」がマーケットにのっかった成功例といえるか。 http://togetter.com/li/433265
しかし、アバターの恐ろしい所とは、「身体の回復」が「ヴァーチャルな肉体の獲得」という普通ならラストで放棄されるはずの「(映画的)体験」がそのまま「身体の回復」になるという本来なら錯誤として扱われる部分を肯定しており、そのリクツの補強材料が、「3D映画である」という周到さ。こええ…
それは劇中のコンテキストから切断されたた設定解釈、引用された他典の単語理解に比べて、どれほど物語についてピュアであるか、ということなのだけど。言ってしまえば、この面白さは、膨大な引用で成り立つエヴァでは達成できなかったことであるわけだ。